※この記事には作品の感想(ネタバレ)が書かれておりますのでご注意ください。
アメリカンスナイパーは、『面白い』『考えさせられる』こういった従来の映画の批評が恐らくどれも当てはまらない作品だと思う。
平和ボケしている日本人(もちろんボクも)にとっては、知らない方がよい描写もたくさん表現されていて、人によってはトラウマになる可能性がある。
ボクは1週間くらい『あるトラウマシーン』が頭から離れなかった。
実話を基にしているため、残虐シーンにリアリティを感じてしまい、ボクはかなり気分がわるくなった。
こういったものに敏感な方は、ぶっちゃけ見ない方がよい。(特に子供がいる女性の方)
しかし、この映画の真のメッセージは『戦争の生々しさ』というものではなく、『自分が正しいと信じるものも、見方を変えると危うさを含んでいますよ』という警笛だ。
その過程で戦争の生々しさを表現するのも必要不可欠な要素なのかもしれない。
ただ、映画という表現手段を次のステージに押し上げた作品として見るなら、これほど凄い作品はない。
正直、ボクはこの作品を好きではないが、間違いなく歴史に残る名作なので精神力がタフな人は観て何かを感じ取ってほしい。
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「アメリカ万歳」の映画ではない
この映画は「イラク戦争」が舞台であり、狙撃兵として活躍したクリス・カイルという実在の人物がモデルになっている。
クリス・カイルは幼き頃に厳格な父に影響を受け、愛国心から海軍に志願する。
父の影響とは、
「弱い者を守りなさい」
「弱い者いじめをするヤツはやっつけろ」
という信条である。(簡単に説明すると)
実は前半にさらっと出たこの父のセリフこそ、この作品のテーマそのものになっている。
この教えの通り、クリスは戦場で仲間を助け、そして敵であるイラク兵を撃ちまくるのである。
前半ではイラク兵の残虐性の描写(ドリルでの殺害など)があるので、イラク兵を倒す正当性が主張されている。
なので、そういったイラク兵を倒すシーンは「正義のため」という大義名分により支えられている。
この大義名分により主人公がイラク兵を撃ちまくっても見ている側は心があまり痛まずにすむのだ。
しかし、巨匠イーストウッドは後半にとんでもない離れ業を行なう。
それは「イラク兵の大義名分」に対して静かにスポットライトを当てるというメタファだ。
これはミステリーのどんでん返しや、叙述トリックのように世界が反転するほどの衝撃だ。
父の教えである
「弱い者を守りなさい」
「弱い者いじめをするヤツはやっつけろ」
これが一気に相手側に反転するのである。
ここで突きつけられるのは「正義とは何か?」という問いである。
この「正義とは何か?」の問いにイーストウッドはエンドロールで答えるだ。
それは・・・(後半でお伝えします)
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開始5で心を掴む
この映画、最初のオープニングで「地震が来ても最後まで観なければならない」と思わせるほど秀逸だ。
主役であるクリス・カイルが建物の屋上から、味方の戦車を援護している。
そんな中、敵兵の親子が対戦車手りゅう弾を持って戦車に近づいてきた。
クリスだけがそれを確認し、子供を撃つかどうかの判断に迫られる・・・
そして、クリスの幼年期へ舞台が移る・・・
「撃つの?撃たないの?」と最後まで観ることにコミットメントしてしまう演出は見事!
(実際はラストではなく、物語の最初の方でこの結末がわかる)
『伝説』という皮肉
※ここからネタバレになります。
先ほどのオープニングのシーン。
イラクの子供が対戦車手りゅう弾を仲間の戦車に投げる場面。
主役のクリスの判断に子供を撃つかどうかの判断が迫られます。
撃てば子供を殺すことになる。
撃たなければ仲間のアメリカ兵を大勢殺されることになる。
ハリウッド映画は子供の殺害シーンを見せないという暗黙のルール的なものがある。
なので、ボクは何か幸運なアクシデントで撃たずに済むと予想した。
しかし、この映画ではしょっぱなからそのルールが無効化されるのである。
クリスはアメリカ軍を守る為に相手国の子供を撃つ。
そして、その母親も撃つ。
しかも、これがスナイパーとしてのクリスの初仕事だったのである。
※ただし、クリスの自伝によると子供を撃った事実はなく。映画のために作られたフィックションという説が有効。
そして、これらの功績が認められ仲間から「伝説(レジェンド)」と呼ばれるようになるのだ。
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なぜ、子供を撃つシーンが必要だったのか?
クリス自身は自伝で子供を撃ったことはないといっているのに、なぜイーストウッドはそのシーンを撮る必要があったのか?
いくら戦争映画といっても、子供を撃つ主人公に対して感情移入するのは展開的にも難しくなる。
そんな危険をおかしてまで、なぜこのシーンが必要だったのか?
しかも、わりと前半に。
それが冒頭でお伝えした「正義とは何か?」である。
人間は自分が正義だと思うことの為なら、何をしても許されると自分を納得させてしまう生き物だ。
対戦車手りゅう弾を使われたら大勢のアメリカ兵が死んでしまう。
だから、子供でも撃たなければならないという「正義」。
この「正義」があるので見ている側も「戦争だからしょうがない」と感じながら観れる。
しかし、その「正義」というのは当然イラク兵にもあるわけだ。
イラク兵にとっても
「弱い者を守りなさい」
「弱い者いじめをするヤツはやっつけろ」
この論理が成り立ってしまうのである。
もちろん「イラクにも言い分がある」とストレートな表現は出てこないが、イラク兵の生活スタイルや家族環境などをちょこちょこ描写することで、潜在的に訴えかけていくのだ。
ライバルスナイパーにも守るべき家族がいたりするわけである。
守るべき家族のためには、逆にアメリカ兵は敵なのだ。
このコントラストの表現がイーストウッドの真骨頂でもあり、この映画の凄いところだ。
メタファに使われる子供
ボクがこの映画が嫌いな理由は、メタファに子供が使われるからである。
メッセージ性を強くしたのだと思うが、見るに堪えられないシーンもでてくる。
例えば、冒頭のクリスがイラクの子供を撃つシーン。
そして、イラク兵のリーダー的存在「残虐者」が裏切りの見せしめのためにドリルで子供を殺害するシーン。
後半にはイラクの子供がロケットランチャーを拾ってしまい、クリスがまた判断を迫られるシーンがでてくる。
ここは要するに、イラク兵「残虐者」がイラクの子供を殺すのも、クリスがイラクの子供を撃ったのも、同じ「正義」によるものだというのを隠喩したのだと思いますが、やはり表現としてキツイ。
ロケットランチャーを拾った子供は撃たずに済むが、それも冒頭のシーンとの隠喩を表現したわけである。
冒頭のクリスであれば、ロケットランチャーを拾って手をかけた時点で撃っていたはず。
しかし、徐々に
「弱い者を守りなさい」
「弱い者いじめをするヤツはやっつけろ」
「正義とは何か?」
を自分の中で問えるようになってきたわけだ。
ここがこの映画の救いであり、このロケットランチャーを持った子供を撃つかどうか迫る「間(ま)」こそ、イーストウッドがアメリカ全土に伝えたかった「間(ま)」だと思われる。
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アメリカン・スナイパーのラスト
「弱い者を守りなさい」
「弱い者をいじめるヤツはブッ飛ばしていい」
これは、恐らく全世界共通の道徳ではないだろうか?
いじめられている人がいたら守りなさい。
その守るときはブッ飛ばしてもいいですよ。
さすがにブッ飛ばしてもいいとは言わないが(笑)、守るためなら相手をやっつけてもよい、というニュアンスでどの国も子供に教育する。
それが「正義」だと昔から言われてきたからである。
仮面ライダー、ヒーロー戦隊など日本でも「悪いヤツはブッ飛ばす」と刷り込まれている。
正義を説いてさよなら~、なんてことはない。
悪い敵はかならず「ライダーパンチ」や「ライダーキック」で倒す。
そして、この思想はどんな国でも、父が子供に教える哲学だ。
だからこそ、子供には「強くなりなさい」と親はいう。
ただし、この思考は「報復による報復」という無限ループを生み出すのである。
仲間がいじめられた
↓
仕返し
↓
その仕返しされた仲間が仕返し
↓
またその仕返しされた仲間が仕返し
終わりがない。
どちらにとっても「正義」が存在する。
この明確な答えは「どこかで負の連鎖を止める」という発想しかない。
ただし、それは並大抵のことではない。
誰だって自分の身内が殺されたら許せないはずだ。
この「問い」に対する答えは作品中は出てこないが、最後のエンドロールでイーストウッドなりのメッセージが表現されていると思われる。
最後のエンドロールは映画にとって「余韻」を与える超重要なパートだ。
ここで利用する音楽により、見終わった後の満足度が大きく左右される。
明るい曲なら、ハッピーな気持ちになったり、希望を持ったりできる。
また、暗い曲なら、悲しい気持ちを助長したり、深く考えされられたりする。
で、イーストウッドがとった手法とは・・・
『無音』
エンドロール中ずっと無音。
ボクはこれが「正義」とは無であるとイーストウッドが伝えているように思えてならない。
つまり「正義」なんて実は存在しないということである・・・
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