※この記事には作品の感想(ネタバレ)が書かれておりますのでご注意ください。
記憶を一度消してもう一度観たくなる映画はたまにあると思うが、まさしく本作『殺人者の記憶法』がそれだ。
先が読めない展開、何度も繰り返されるどんでん返し、リアリティを繋ぎとめておく絶妙な設定の数々。
確かに突っ込み所は多々あるが、それでも引き込まれてしまう脚本は見事である。
また、主人公ビョンスを演じたソル・ギョングの演技力が凄まじい。
アルツハイマーの症状がでる時に顔が痙攣するのだが、その表情の変化はさすがである。
殺人鬼としての顔、一人娘を守る時の顔、もう一人の殺人鬼と接するときの顔。
また、後に公開されてた「新しい記憶」という別バージョンでは、驚愕するもう一つの顔が出てくる。
この記事では、この「新しい記憶」と通常版を比較しながら考察してみたいと思う。
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通常版と新しい記憶の違い
通常版と新しい記憶では、ラストが180度変わってくる。
まず、通常版の場合、デジュが新しい殺人鬼(真犯人)であり、ビョンスに罪を擦り付けようとするテーマの物語である。
ビョンスはアルツハイマーによって、デジュが新しい殺人鬼と知りながらすぐに忘れてしまい、デジュがそのアルツハイマーの症状をうまく利用するというサスペンスに仕上がっている。
記憶が飛んだり蘇ったり、一体何が真実なのか?という緊張と緩和を繰り返していくのだ。
ラストは何とかデジュを倒し、娘を守り切ってハッピーエンドを迎える。
これに対し、新しい記憶では、デジュはまったく関係ない刑事であり正真正銘正義の味方なのである。
そのデジュに罪をなすりつける計画を立てるのがビョンスという驚愕のテーマとなっている。
そして、アルツハイマーということを理由に取り調べを逃げ切ってしまうのだ。
その事実を知った娘はショックからしゃべれなくなってしまうというバッドエンディング。
つまり、新しい記憶ではビョンスこそ正真正銘の悪であり、他に殺人鬼はいないのだ。
通常版→デジュが悪党(その結果、ビョンスはデジュを倒したことも忘れてしまうので無限ループ)
新しい記憶→ビョンスが悪党で、デジュは無関係の被害者
この2つのバージョンはポスターや、DVDなどのジャケットが見事。
通常版の方は娘を守ろうとする決意の表情であり、新しい記憶の方ではうまく出し抜いた笑みを浮かべている。
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殺人鬼VS殺人鬼
『殺人者の記憶法』の面白い所は、先輩殺人鬼と後輩殺人鬼の心理戦であろう。
主人公である先輩殺人鬼は世に悪影響を与えるような人物を始末する。
正義のヒーローを自覚しているわけである。
しかし、これが実はめちゃくちゃサイコで、どんどんエスカレートしてしまうのだ。
「竹林に埋めるぞ」というセリフは中々のもの。
一方後輩殺人鬼であるデジュは、なんと警察官。
犯行動機も世直しというよりも趣味的に描かれている。
この先輩と後輩の心理戦が非常によく描かれているのだ。
後輩(デジュ)は先輩の娘にまずは近づく。そして少しずつ自分の味方にし、先輩の過去を教えていくのである。
ストレートに仕事をこなす先輩に対し、後輩は下準備を楽しむような性癖がよく表現されている。
また、来るべき戦いにそなえ、衰えた筋力を鍛えようとする先輩の姿も哀愁があって非常に良い。
通常版の方がしっくりくる
この様に、殺人鬼の世代交代が描かれているのだが、このメインテーマは「新しい記憶」にはマッチしない。
なぜなら、敵役であるデジュは普通の警察官だからである。つまり殺人鬼VS殺人鬼の構図にならないのだ。
さらなるどんでん返しを狙ったのかもしれないが、これだとメインテーマが破綻してしまう。
アルツハイマーではなく、多重人格という設定になってしまい、それこそ過去のサスペンス映画の焼き増しとなり本末転倒だ。
また、通常版ではデジュを本当に始末で来たのか?という『記憶』のあやふやさがラストに描かれ、釈放後もずっとデジュを追い続けるという無限ループに落ちる哀れな殺人者の末路が最高なのだ。
よって、個人的には「通常版」だけを観ればよいと思う。
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