※この記事には作品の感想(ネタバレ)が書かれておりますのでご注意ください。

呼吸をするのも忘れるくらい、ヒリつく緊張感が味わえるサスペンス映画『エンドオブトンネル』。

心臓の鼓動が聞こえるほどのハラハラドキドキ感を楽しむことができる作品である。

また、主人公をわかりやすいヒーローに描かず、途中で視聴者の心をあえて離すテクニックは最高の演出。

これにより、ラストが一体どうなるのか全く見当がつかなくなるのである。

この辺のバランスが絶妙なのである。

例えば、主人公ホアキンは車椅子生活なのだが、安易なお涙頂戴にせず過去もぼやかしている。

安っぽく同情させるような手法は使わず、最後まで「本当の性格」を解りづらく描いているのだ。

こういった性格にすることで、強盗犯が盗んだ金をブン盗るという計画の違和感を最小限に抑えられるのである。

強盗犯が作ったトンネルを利用して一泡吹かせるというのが本作のメインテーマであり、根本的なアイディアでもあるので、視聴者に同情させるようなヒーロー的な主人公は使えないのである。

こうして、車椅子の男が強盗犯の盗む金を奪うというスリリングな設定が完成するのである。

この辺のバランス感覚が素晴らしく、「求める演出をする為にはどうすればいいのか?」を完璧に作り込んでいるのだ。

 

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なぜ車椅子の設定にしたのか?

本作のレビューを見ていると、「車椅子に設定した意味がないじゃん」という意見をよくみかける。

また、予告やポスターなどのキャッチコピーとして「最大の武器は動かない下半身」とある。

しかし、これによって直接的に敵を倒すなどの描写はない。

だからこそ、このキャッチコピーに対して「えぇ~?」となる方も多いと思われる。

ただ、やはり「最大の武器は動かない下半身」だったのである。

それはなぜか?

敵である強盗犯グループは調査によってホアキンが車椅子生活なのを知っている。

だからこそ、固定概念によってトンネルに降りて銀行にある貸金庫を横取りされるなんて夢にも思っていないのである。

つまり、強盗犯の裏をかくことができたわけである。

車椅子なので犯人グループの作業部屋へいけるはずはないと、強盗犯は当然思い込む。

しかし、実際は盗撮しており、犯人グループの名前や、趣味・趣向、犯行後どうするか?などの情報も細かくチェックしていたわけである。

この情報によって、ラストでは犯人グループの仲間割れを発動させピンチを切り抜けるのである。

つまり、犯人グループは車椅子のホアキンを完全に見くびっていたわけである。

貸金庫の中を横取りされ、作業部屋を盗み見られていたなんて、誰一人として予想できなかったのだ。

これが「最大の武器は動かない下半身」ということになるのである。

 

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なぜ娘のベティは下着でホアキンに近づいたのか?

主人公のヒロインとなるベルタには一人娘ベティがいる。

このベティが物語に大きなうねりを与えてくれている。

例えば「隠れるのが好き」という設定。最初は「なんて都合のよい設定なんだ」と誰もが思う。

そして、トンネルの中に隠れてしまい強盗グループの作業場へ入ってしまうのだ。

「隠れるのが好き」という設定はここに繋がるのか?と思っていると、なんと衝撃の事実が判明する。

犬に仕掛けておいた盗聴器から、ベティは犯行グループのリーダーから虐待を受けていたことが判明するのである。

これにより、ショックからしゃべらなくなってしまっていたのである。

では、なぜベティは下着姿でホアキンの部屋へ入っていったのか?

ホアキンもまたベティを虐待していた、という人もいるが、まさかそんな事はない(笑)

この受け取り方はいつくかある。

①ホアキンを試した

信頼できる男性かどうか?を試した可能性がある。

また、大人の男性は皆そういった行為をするのか?を確認しようとしたかもしれない。

だからこそ、花火を2人で見上げるときに、目を合わせようとするとそらしたり、少しずつ距離が縮まっていくのだ。

 

②調教されていた

犯行グループのリーダーに調教(洗脳)されていた可能性もある。

夜中に男の部屋に下着姿で行くのが当然になっていて、その習慣がでてしまった。

 

③ホアキンに打ち明けようとした

母親が寝ている間に、ホアキンに事実を打ち明け助けを求めようとしていた可能性もある。

しかし、それだけの勇気はまだなく、大人の男をまだ信用できない状態だったのかもしれない。

 

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ダンサー(ストリッパー)という設定

そして、ベティの母であるベルタはダンサー(ストリッパー)という設定。

車椅子の男、一言もしゃべらない娘、そしてストリッパーという濃すぎるキャラ設定。

こちらもレビューなどで、なぜダンサーという設定にしたのか?無意味ではないか?という意見が多い。

確かに、柔軟性を利用して敵を倒すなどの演出はない。

というより、後半はベッドの上に縛られているだけというようなお荷物キャラ。

それでも、やはりダンサーという設定は必要なのだ。

その理由は、「トンネル」という何とも暗いテーマを扱うからである。

もしも、ベルタのキャラ設定が地味な公務員だったらどうか?

地味な家、地味な車椅子の男、地味な(しゃべらない)娘、地味な強盗犯の作業部屋、そして地味なトンネルという、まったく「色」のない作品となってしまう。

ここに唯一「華やかさ」を出せるキャラであるベルタがいることで、バランスをとっているのだ。

そして、後半ベルタが縛られると、今度は花火が打ち上がる。

このダンサーとしての華やかさと、花火の華やかさを印象付けることで、トンネルの出口である「光」を隠喩しているわけである。

 

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主人公の目的は何だったのか?

『エンドオブトンネル』の見どころは主人公の心理描写である。

これが結構解り難く描かれているので、視聴者はまごまごさせられる事が多い。

例えば、強盗グループの一人が中盤で携帯を持ち込んでしまい始末されてしまう。

普通であれば警察に連絡しろよ!となる。

また、強盗の金を横取りしたり、溺れそうな犯人グループの一人を助けなかったり、正義の味方的には描かれない。

では、一体主人公の目的は何だったのか?

それは、自分の家族を救えなかった葛藤との戦いだ。

だからこそ、主人公は中盤から何度も同じセリフを繰り返す。

それが「オレに任せろ」という言葉だ。

これはつまり、オレが絶対に助けるから任せてくれという強い意志なのである。

だからこそ、警察に通報したりはしない。

そして、お金も自分で作ろうとするのである。(横取り)

こうして、過去に救えなかった自分の家族に対する自責の念を断ち切ろうとするのだ。

その為にも、目の前にいる家族を一人で救う必要があるのだ。

そこでは下半身が動かないのに銀行まで這っていき、そして捕まれば知恵を絞り切り抜ける。

家族を守る為なら何だってする、という強い決意が表現されているのだ。

そして、その結果こそトンネルの終わりであり、光に照らされた家の外にでるラストシーンは見事である。

冒頭でベルタが言うように、家を売ればかなりの額になるのである。

しかし、それが出来なかったのは自責の念があったからだ。

そして、ベルタとベティを助けたことによってその想いは浄化され、家の呪縛から解放されるのである。

もう一度家族の温かさを取り戻せたのかどうかは、ラストに集約されているのだった。

 

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