※この記事には作品の感想(ネタバレ)が書かれておりますのでご注意ください。
宣伝・CMを一切見ないで、この映画を鑑賞し大正解だ。
やはり、予備知識がない方が確実に楽しめる。
たった数分でも、その映画の世界観にCMで触れてしまうと、「フィルター」を作ってしまうことになる。
そのフィルターのせいで本編の楽しめる部分も、まったく楽しめなくなる可能性が高くなる。
今回レビューする「ハイド・アンド・シーク」もミステリーなどの先入観もなく観はじめることができた。
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ハイド・アンド・シークの内容(ネタバレ)
母の死により、心を閉ざしてしまった娘(ダコタ・ファニング)を改善しようとする父(ロバート・デニーロ)。
これが物語の中心的な骨格だ。
しかし、それは感動ドラマのような光はなく、どちらかというと最初から重々しい空気が漂うのだ。
娘のことを思って、郊外の一軒家に引っ越すが、この場所も重々しい雰囲気だ。
この様な父の努力とは裏腹に、娘の様子はますますおかしくなってしまう。
娘は「チャーリー」という子供と遊んでいるらしいのだ。
この辺から視聴者は「チャーリー」をイメージするようになり、まだ見ぬ姿に恐怖を感じるようになる。
最初は娘の空想だと憶測するのだが、ほんとうにいるように生々しく「チャーリー」を表現する。
視聴者に「チャーリー」の存在をイメージさせるのは、やはりダコタ・ファニングの才能だろう。
並みの子役では、リアルに「チャーリー」をイメージ化させられない。
頭で描く「チャーリー」がとにかく怖いのだ。
どうやって家に入ってきた?
2人で何をして遊んでる?
家のどこに隠れている?
どんな容姿?
もしかしてベッドの下に?
などなど、恐怖のイメージを勝手に想像してしまい、どんどん怖くなっていく。
まったく凄まじい演技力だ。
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ハイド・アンド・シークの結末は?
少ない登場人物&一軒家という限定空間から、父が実はチャーリーだった、というオチを想像できる人は結構いたと思う。
ただ、チャーリー=子供という先入観から、なかなか父に結び付かなかった人は爽快などんでん返しを味わえたと思う。
私は後者だったので、この「騙された感」には満足できた。
しかし、ロバート・デニーロがチャーリーに人格が変わる時の恐怖といったら。
こんなのと、かくれんぼをするなんて怖すぎ。
声の変化も凄い。
母の死のカットインや、浮気現場のカットイン、荷物を開封していないシーン、日記に何も書いていないシーン、これらが効果的に流れる場面はお見事。
繋がりのないデニーロのシーンが細切れにあったのは、ヒントだったわけだ。
ホラー&ミステリー
この映画について「フェア」「アンフェア」を語るのはナンセンスだ。
2人の天才が観る側の頭に「チャーリー」を出現させれば大成功なのである。
謎解きがメインの映画ではないので、気持ちよくどんでん返しを楽しめば良いのである。
ただ、ラストのエミリーの絵は少しくどく感じたかな。
「娘も二重人格だったんだぜぇ、驚いたろ?」と言っているようで、ちょっと下品だ。
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