※この記事には作品の感想(ネタバレ)が書かれておりますのでご注意ください。

アメリカというか、日本や先進国が抱える「見栄」の魔力。

いい家に住み、いい服を着て、いい仕事に就く。

一見、幸せそうに見えるが、どこかに綻びは生まれるもの。

そして、そこに達成したとしても本当の満足感は得られず、自分の感情を抑え生活しなければならない。

頭が勝手に作り上げた『具象』。

しかし、それは誰かに作らされたのではないか?

テレビ・雑誌・広告・・・

このようなメディアに影響され、『誰かの幸せ』を強制的にインプットされてしまう社会。

そんな社会に警笛を鳴らすような映画がアメリカン・ビューティーなのである。

 

アメリカン・ビューティーとはバラの品種であり、様々なシーンで比喩として表現される。

 

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アメリカン・ビューティーの感想

この映画の主人公レスター・バーナム(ケヴィン・スペイシー)は、いかにも中流的な立派な家に住む広告代理店に勤めるサラリーマン。

朝おしゃれなバスルームでシャワーを浴びる所からスタートするが、この朝のシャワータイム(マスターベーションタイム)が唯一の楽しみと冒頭のモノローグで打ち明ける。

 

幸せそうな家

不幸せそうな主人

 

冒頭で、この対比をみせることで、視聴者に「なぜ」という協力なフックを作る。

しかも、次のナレーションに驚く。

なんと、もうすぐ死ぬことをレスター本人のナレーションによって聞かされるのである。

この2つのフックによって、開始5分で映画の世界に引き込まれてしまうのである。

 

なぜレスター(ケヴィンスペイシー)は不幸せなのか?

いくつか原因がある。

 

 

まずは、見栄を気にする妻キャロライン・レスター(アネット・ベニング)の存在だ。

とにかく上昇志向で気が強い。

そして、自分に対しても厳しい側面をみせる。(絶対に泣かない、など)

 

続いて、一人娘のジェーン・レスター(ソーラ・バーチ)。

反抗期まっしぐらで、特に父への尊敬は皆無である、というより嫌っている。

つまり、立派な家に住みながら、家族としてバラバラな状態なのである。

 

ただ、この映画の面白い所は、それぞれが「きっかけ次第」で好きなように生きていく所である。

 

そのきっかけが、隣に引っ越してきた「リッキー」という青年だ。

 

リッキーは厳格な父を持つが、自我をコントロールする不思議な青年だ。

マリファナを売ってお小遣い稼ぎをし、常にビデオカメラで録画している、サイコパスな面もある。

そんなリッキーの生き方に、主人公のレスターは影響を受けていくのである。

バイトをサボって注意されても、「給料はいらない」といって自ら辞めてしまうリッキー。

そんなリッキーをみて主人公レスターは「キミはボクのヒーローだ」と関心する。

 

また、レスターは不謹慎にも娘ジェーンの友達アンジェラに下心を抱く。

 

今まで押さえつけられていたものが壊れたように、自分の欲望に前向きになっていくのである。

アンジェラが「筋肉があった方がセクシー」と言えば、筋トレをはじめてしまう(笑)

 

そして、ついには会社も辞めて、ハンバーガー屋さんのバイトで食いつなぐ決断をする。

つまりこの時は、アンジェラ以外頭にないのである。

 

筋肉をつけて魅力的な男になり、時にはマリファナも吸って青春を取り戻す。

見栄もすべて脱ぎ去り、1人の女性の為に毎日が充実している。

この流れは観ていてとても清々しい。

自分を取り戻すレスターに多くの男性は共感できるであろう。

 

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結末はどうなる?

 

終盤になると冒頭と同じようにナレーションが入る。

「今日が最後の日だ」

つまりレスターが死ぬ日である。

 

ここまでの流れで、妻のキャロラインが浮気をし、それをレスターに知られ混乱している描写がある。

しかも、趣味ではじめた銃も携帯している。

これにより、混乱したキャロラインがレスターを撃って家族が崩壊するのかという予測がつく。

タイミングが悪いことに、アンジェラも泊まりにきていて、レスターとよい雰囲気になってしまっている。

混乱と逆上によって、我を忘れ、引き金を引いてしまうのであろう。

 

しかし実際は違うのである。

 

 

なんと隣に引っ越してきたリッキーの父が、レスターを銃で撃ってしまう。

まず、リッキーの父はゲイであった。

これには結構伏線があったので、自然に展開される。

リッキーの父は厳格な性格から、自分がゲイであることをカミングアウトすることができず、ずっと苦しんでいたのである。

リッキーがレスターにマリファナを渡しにいったとき、窓越しから2人が愛し合っているようにみえてしまったのだ。

つまり、リッキーの父は、レスターがゲイだと勘違いしてしまったのである。

そして、レスターが一人になった時、アプローチしてしまうのである。

この時、今までのレスターであれば「何やってんだ!この野郎っ!」という感じで追い払う所、「勘違いしているようだ」と優しくいなすのである。

今までのイライラはもうない。

心にゆとりを持っていること、そして人に優しくなれていることが表現されている。

これにより黙って帰るリッキーの父であったが、混乱したやり場のない悲しみから、レスターを銃で撃ってしまうのである。

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こうして終幕するのだが、この映画の見どころはレスターが撃たれる所ではない。

その少し前の話だ。

 

泊まりに来ていたアンジェラが、ジェーンと喧嘩してしまい、一人になってしまう。

自分は普通は嫌だと思っていたが、親友のジェーンから「あんたは普通だよ」と本音を言われてしまうのである。

つまり、ここでも「見栄」がテーマになっている。

男にモテる話をしたり、何人と関係を持ったとか、まぁ普通だわな、と視聴者も思っていたはずだ。

ただ、特別な自分になりたくて見栄から男にモテる話を色々な人にしてしまうのである。

普通は嫌だから特別な自分を演出したいはずなのに、その見栄そのものが皮肉にも普通を演出してしまっていたのである。

この辺がこの映画のテーマになっていると思われる。

普通(平凡)は嫌だから、物や欲、人からどう思われたいのか?を突き詰めてしまう。

しかし、それでは結局心は埋まらないのである。

リッキーや、目覚めたレスターはどうか?

人からどうみられるか?という視点を捨てた。

だからこそ、レスターはハンバーガー屋さんで働くし、リッキーは危険な仕事で小遣いを稼ぎ、友達も必要ない。

それなのに、毎日活き活きしている。

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そして、最終的にアンジェラといい関係になりそうなレスター。

夢にまでみたアンジェラを抱くことができる。

しかし、アンジェラが本当は男の経験がないことを打ち明ける。

そこでやっと自分にハッとするのである。

自分の娘くらいの子を抱こうとしていた異常さに気づくのである。

それと同時に見栄・虚勢を捨て、処女であると告白したアンジェラに対して、本当の美しさを感じたのである。

そして、アンジェラを傷つけなように、娘のように優しく接するである。

「夢にまでみたアンジェラ」

この描写は多々あった。

眠りながらマスターベーションをしてしまうほど思いを寄せていたのだ。

しかし、それを捨てて、最後は「父親」を取ったのである。

 

見栄・物欲・性欲・他人にどう思われているか?

これらを捨て去った後、何ともいえない幸福感がレスターを包むのである。

しかも、その幸福感は銃で撃たれた後も続くのである。(ここが凄い)

撃たれた瞬間、思い出したのは夢にまでみたアンジェラではなく妻と娘。

家族との幸せな時間を回想し、それが続くことを明示し物語は終わるのである。

抽象的な映画だが、1か所だけ作者が具体的に説明している場所がある。

それは、レスターと妻のキャロラインが中盤、ひょんなことからいい雰囲気になったとき。

ビールを持っていたレスターに「ソファーにこぼれてしまうわ」というキャロラインが言う。

これに対し「人生より物が大事だなんてどうかしている」とレスターが怒る。

 

最初から幸せそうな活き活きしている隣人のゲイ2人。

そしてリッキーが美しいと感じてビデオを撮った、風に吹かれるビニール袋。

 

見栄という重りがない方が、幸せが広がっていく・・・

そんな描画に感じた。

だからこそ、レスターが撃たれた直後は、全ての見栄(重り)を捨てることができたので、幸福感に包まれているのであろう。

 

もっと深い人間関係があるが、とても説明しきれない複雑性を持つ映画である。

文字では表現しきれないテーマであるからこそ、この作品の深さと、アカデミー賞は伊達ではないことが証明されている1本だ。

 

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