※この記事には作品の感想(ネタバレ)が書かれておりますのでご注意ください。

電気・電池・デジタル機器これら全てが使えなくなったらどうなるか?

地震大国日本にとって、この映画は単なるコメディではなく多少は現実味のある話となっている。

今まで当たり前のように使えていたものが一瞬で使えなくなる様子を「絶対に問題ない」という主人公の危機感のなさから丁寧に描く展開をお見事。

携帯も使えない、テレビも使えない、ラジオも使えない。

この現象は、電力会社の電気が使えないというものではなく、何かしらの原因で電気そのものが使えなくなってしまったのだ。

だからこそ、ガソリンで動くはずの車も使えない。

なぜなら、エンジンをかける為の点火装置は、最初に電気を使うからである。

この様な理由から、ヘリコプターや新幹線なども使えないのである。

そんなパニック映画を予想するのだが実はそういう映画ではない。

サバイバルファミリーという言葉から、困難に立ち向かい家族愛を深めていくコメディだと思ったら火傷をする。

 

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便利が生み出す幸福感VS不便が生み出す幸福感

電気が使えなくなれば、医療関係で相当な被害がでるはずだ。

手術中や出産中などなど、考えただけでもゾッとする。

しかしこの作品の場合、こういった悲惨なシチュエーションは描かず、サバイバルに不慣れな主人公の成長や、家族との絆を描いている。

なので、重い感じにはならない。

というより、ツッコミ所の方が多く、それほど緊張感を持つ必要もなく、気楽に鑑賞ができる。

なので、危機感に対しての臨場感はない。

しかし、ラストに近づくと、単なる家族愛の物語でないことに気づく。

それは、便利(電気など)が生み出す幸福感と、不便が生み出す幸福感についてである。

この映画の凄い所は、電気が復旧するまで2年以上かかる点だ。

主人公一家が実家に着いて、2年以上が経過する。

その2年後というのは、皆で協力して魚をとったり、あれだけ虫嫌いだった妻が畑で野菜を作ったり、しっかり生活している。

というより、みんな活き活きしているのである。

ここが1番伝えたかったことだと思われる。

 

なぜなら、その後電気が復旧すると、一家は嬉しそうな顔をしないのだ。

むしろ寂しそうな顔をする。

 

ここで冒頭の電気がある普通の生活を思い出すと興味深い。

娘はスマホ(LINE)に追われ、息子はヘッドホンとパソコン、父はずっとテレビ・・・

これが、鹿児島で2年生活すると溢れんばかりの笑顔になっているのだ。

楽しそうに毎日を過ごしているのである。

 

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ラストは都内に戻るんかい!(笑)

鹿児島へ向かう途中、一家に食事を提供した農家のシーン。

娘はお肉を食べて涙する。

冒頭で生魚を「キモイ」と言っていたシーンはここの為にあり、自分がどれだけ恵まれた生活を送っていたのか?感謝とは逆のことをしていのか?やっと理解できたのである。

この、めちゃくちゃ生意気だった娘が、涙のみで食に感謝するシーンをみて感動できれば、映画のチケット代の元は取っている。

しかし、ここまで観て「蓄電池を使え」とか、そういった細かい設定を突っ込む方は、残念ながらチケット代を損してしまっている。

 

近代科学のアイテムが使える生活と、それが使えない原始的な生活。

いったいどちらが幸福なのか?

この映画では後者だが、これは人によって相対的に異なることだ。

だからこそ、必ずしも電気が無い生活の方が人間は幸せになる、とは言い切れない。

ドキュメンタリー映画として、1年くらい電気の無い島で生活した映画を作る方が説得力があるだろう。

「自然がいい」とは誰でも思うが、結局はまた都内に住む鈴木一家の哀愁もラストに描いて欲しかった。

弁当もミシンも魚をさばくのも良いが、結局「便利さ」からは逃げ切れないのである。

 

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