※この記事には作品の感想(ネタバレ)が書かれておりますのでご注意ください。

とにかく過激で、とにかく刺激的で、とにかく胸に響く何かがある。そんな映画が『ナチュラルボーンキラーズ』だ。

しかし、実はただのバイオレンス映画ではなく、その裏には驚くほど緻密なメッセージが仕掛けられているのだ。

原案脚本は無名だったタランティーノが書き、監督は『プラトーン』でアカデミー賞をとったオリバー・ストーン。

主役であるミッキー&マロリーのキレっぷりも凄いが、他の登場人物も意表を突くクレイジーさで目が離せない。

モノクロ映像、アニメ、ホームドラマ、などがコラージュされ、それが主人公2人のバイオレンスと組み合わさり、独特な世界観を作っている。

これが冒頭から全開で始まり、シリアスなシーン(親の虐待)なのにホームドラマのコラージュにした拍手の音など、衝撃度は半端ではない。

ミッキーとマロリーがはじめて出会うシーンで、ミッキーは肉の配達をしている。

その配達で持ってきた肉が血だらけで、人によってはゾクゾクしてしまう危険なシーンなのである(笑)

「ここから何かが始まる」そう思わせる凄い演出だ。

そして、マロリーの両親を撃ち、バイオレンスな世界にどんどん進んでいくのである。

 

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メディア批判

この映画は徹底したメディア批判が行われている。

例えば前述したように、親の虐待に苦しむ娘のシーンでも、ホームドラマの拍手の音が挿めばコメディとなってしまうのだ。

つまり、メディアの『コントロール(洗脳)』に対する警笛である。

こんなに殺戮を犯している2人もメディアがコントロールすれば人気者になってしまう。

そして、TV番組キャスターのウェイン・ゲールは自分の人気の為にも、ミッキー&マロリーをさらに利用とする。

しかし、そうして自分の利益(視聴率)を追求するあまり破滅してしまう。

しかも、最後は担いだ神輿である2人に撃たれてしまう。

そういった殺戮シーンがあるにもかかわらず、テレビをみている視聴者はフィクションとノンフィクションに気づかない。

 

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途中で登場するインディアンの役目

車が故障したミッキー&マロリーは、近くにあったインディアンの住まいを訪ねる。

インディアンの家には当然テレビはない。

テレビをみない人間にとって、この2人は悪魔だ。

しかし、逆にテレビを観ないインディアンは2人にとって無用なのだ。

だからこそ、撃った後に「撃つ気はなかった」と後悔する。

ここまで後悔しながら撃ったことはなかったミッキーだが、このシーンでは後悔するのである。

インディアンの家の中で一瞬だけ表示される『テレビの見過ぎ』という文字が、恐らくこの映画のメインテーマではないか?

 

ミッキー&マロリーの模倣犯

『ナチュラルボーンキラーズ』は物議を醸しだした映画だ。

その1つはミッキー&マロリーの模倣犯が出てしまったことだろう。

何百万人に1人は影響される人が出てきてもおかしくはない。

それより、この映画の特徴であるカットインが問題だ。

途中で血まみれの悪魔の映像などがカットインされる。

これは監督の意図はないかもしれないが、『サブリミナル効果』を引き起こす危険性がある。

例えば、昔の実験である映画の中で一瞬だけコーラの映像を入れたら、見終わった後、ほとんどの人がコーラを飲みたくなったという効果だ。

つまり、意識できないほどのカットインを入れられると、それが強烈に無意識に影響を与えてしまうのである。

もちろん映画に罪はないが、上記のカットインのような独特の演出によって、様々な副作用が起こる危険性もある。

バイオレンスという上着を着ているが、中身はメッセージ性の強いテーマであり、その意図を汲みとった時にこの映画の凄さがわかるのである。

 

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